夫婦・家族

肺ガン末期の親を見送った顛末8「病人につきそう、とまどい、迷い、逡巡……」

回復の見込みや、治療のメドがつかない高齢者を、受け入れて入院させてくれる病院が極めて少ないことは、今回、父の病気で始めて知った。

それが余命1カ月と言われた末期ガン患者でもである。

そういう病人を受け入れる緩和病棟のある病院のベッドは少なく、入院は順番待ちなのだ。待ってる間に死んでしまう。

地元の大病院、聖M病院で受け入れ拒否された父をかかえ、私は、最悪、救急車をよんで、救急入院させるしかないと考えていた。

実際、聖M病院の医師には「ギリギリまで自宅で看病して、いざとなったら救急車を呼んでください」と言われていたのだ。

ギリギリまで、ってどういう状況のことを言うのだろう。

ギリギリまで我慢して、なんて、怖すぎる!!

 

うちの場合は、家からわずか3駅のところにある病院で、入院を受け入れてもらうことができた。そのことについては、病院のカウンセラーや担当ドクターに、感謝の気持ちでいっぱいだ。

 

入院ができ、「仕事に穴を開けなくてもすみそうだ」とホッとしたのもつかの間。

父からは「いつになったら、退院できるんやろなぁ~」と聞かれる。

やっとの思いで入院できたところなのに、退院の話かい……、とややげんなり。「お願いだから、今しばらくここに居てください」と思いながらも、

「ちゃんとごはんを食べて、体力をつけないと、点滴を外すことができないし、退院もできないよ」と答える。

 

父は、聖M病院の医師に、ガンが再発していることは告げられているのだが、余命については言及されていない。

言わないように、こちらで頼んだからだが、父がどこまで今の状況を理解しているのか不明だ。

このことについては、話を掘り起こしたくなかったので、話題にするのをさけてきた。

 

「いつ退院できるんやろなぁ~」と言う一方で、

「もう、早う死にたいんや。ママのところへ行きたいんや」とも言う。

3年前に亡くなった母のところへ行きたい、と言われても、私にはなすすべがない。気分は萎えるばかりである。

 

父は認知症をわずらった母の介護を約3年間に渡り、一人でしてきた。

母が亡くなり、一人暮らしになって、私たち夫婦の近くに住み始めたころ、父と私たち夫婦で旅行に行ったことがある。

父が学生時代を過ごした、琵琶湖のほとりの地を訪ねたのだ。

町はすっかり様変わりしていたが、当時の面影が残るボート小屋が見つかり、たいそう喜んだ。

そのとき、撮影した写真を見せたり、昔よく一緒に行った釣りや、大阪のガード下の立ち食いの串揚屋の話をして、楽しいことを思い出してもらうように努めた。

それにしても、楽しい思い出を、ここ1~2年の間にもっと作っておくべきだったと後悔しきりである。

いつか父を連れて行きたいと思った、瀬戸内海の港町にある小魚料理の店。

相模湾のキス釣り。

思うばかりで、実現できないままだった。

 

点滴の管が体にまとわりつくのが不愉快な父は、点滴を自分で引き抜きかねない様子だ。

医師からは、

「今は腕の静脈に点滴をうっていますが、そのうち血管が固くなって、打てなくなるでしょう。近いうちに、足の付け根にある、もっと太い中心静脈にカテーテルを留意する方法で点滴することが必要になります」と言われている。

この処置を行うためには、家族が同意書にサインしなければならない。

 

今でも点滴をすごく嫌がっているのに、この書類にサインするのが果たして本人のためになるのだろうか?

中心静脈カテーテルを、もし本人が無意識に引き抜いたときは、そうとう流血するらしい。

治る見込みがあるのなら、辛い治療も我慢のしがいがあるが、そうでないのなら、できるだけ本人が苦痛を感じないようにして欲しい。

 

 

この書類のサインについては、しばらく考えさせてもらうことにした。

日々、いろんな決断をせまられる。

とまどい、迷い、逡巡……。

死を間近にした病人につきそうということは、こういうことなのだろう。

(ヤマダヨウコ)






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